オリジナル小説 暗闇で抱きしめて-『Hold me in The Dark 』人生一睡夢 3

こんな僕でも友達はいたんだよ。僕の家の隣のアパートに住む、拓也っていう僕と同じクラスの子。まあ僕と同じで少し変わった奴だったな。当時、僕と父はアパートに住んでたんだ。モルタルの白い壁に蔦が這っていて、屋根は苔が生えているほんとに古い建物だった。部屋は六畳と三畳で風呂なしの小さなアパートだった。
 初めて拓也に会ったのは銭湯なんだ。「梅の湯」って僕のアパートから歩いて五分くらいのところにある、赤茶けた壁に白っぽいシミが浮いている古びた銭湯に行ったんだ。やたらに煙突が大きかったことを今でも覚えてる。ろくに洗いもせずに湯船に浸かっていると、背中をトントンと叩かれた。振り返って見ると、誰もいない。また叩かれて振り向くと誰もいない。三度目に振り向くとザンブと誰かが顔を出した。

「幸一君」って言いながら、お湯からヌーっと顔が出てきた。同じクラスの拓也だった。拓也は水から上がった河童のような頭をして、顔も拭わずに僕に声をかけてきたんだ。まだ口にも水がかかっているので、声がくぐもって聞こえておかしくて大笑いしたよ。
「いつもここに来る?」って言う声がなんとか聞き取れたから、「初めて」って答えたんだ。僕はその時、笑いをこらえながら拓也をみた。
「僕はいつもここに来るんだよ」
「いつも?」
「そう、でも毎日じゃないよ。毎日来るのはお金が大変だからって、お母さんが」
「お母さん?」
 僕はそう言うと風呂の中を見渡した。わまりに拓也のお母さんらしき人はいなかった。
「ここにはいないよ。ここは男湯だよ」
「男湯って?」
「知らないの。銭湯は男と女に分かれてるんだよ」
 そう言われて改めて見渡すとたしかに周りは男ばかりだった。
「お母さんはあっち」
 拓也はそう言うと壁の向こうを指差した。壁の向こうから女の人の声が聞こえてきた。
「面倒だね、一緒に入ればいいのに」
 僕は大真面目にそう言った。
「そんなことできないよ」
 拓也は笑みを浮かべて僕を見た。
「なんでだよ」
 僕は拓也に馬鹿にされたように思って、少しむっとして答えた。
「だって男と女は一緒に入れないじゃない」
「え、なんで?」
 その時、僕は本当に知らなかったんだ。
「当たり前じゃない、知らないの?」
 拓也は声を出して笑った。その時の拓也の顔は僕を見下しているように見えた。僕は人から蔑まれるのが死ぬほど嫌いだった。
「知ってら」
 僕はバカにされた悔しさと拓也が言った当たり前のことを知らなかった自分に腹をたてて、拓也の肩を小突いた。拓也は一瞬表情を固くしたあと、その場にしゃがむと顔を覆って泣き出してしまった。銭湯に泣き声が響くと大人たちが駆け寄ってきた。
「どうした坊主」
 大人たちの声を聞きつけた銭湯の主人が駆けつけてきて
「なにをしたんだ」と僕を大声で叱責した。
 僕は黙って泣いている拓也を見ていたんだけれど、言葉を発するタイミングがつかめないでいた。
「殴ったのか」
 大人たちは次々と僕を詰問してきた。僕は違うと言いたかったんだけれど、どうしても言葉が出てこなかった。そして僕は、その場から逃げ出してしまった。
 あの時のことを思い出すと今でも恥ずかしくなるんだけど、当時の僕は、同級生の拓也が知る当たり前のことを知らなかったことよりも、拓也が「当たり前」を大人のように押し付けてきたことに腹を立てていたんだ。

 僕はパンツだけ着けて銭湯を飛び出すと、そのまま駆け足で家まで帰った。鍵を持っていなかったので、アパートの前で父の帰りを待った。でも、父はいつまでたっても帰って来なかった。僕はアパートのドアを背にして頭からタオルをかぶって座っていたんだ。
「幸一」
 父が僕に声をかけてきたのは、銭湯から逃げ出してから一時間くらい経ってからのことだったらしい。らしいというのは、僕はそのまま居眠りしてしまって時間の感覚がなかったからなんだ。親父はドアを開けて僕を部屋に入れると、
「寒くなかったか」
 と僕の頭をゴシゴシとタオルで拭いた。五分刈りにしていた頭に親父のごつい手の感覚を直接感じると、淋しさから抜け出した安堵感から親父の腰に抱きついた。きっと僕の目からは、少しばかりの涙が出ていたのかもしれない。僕は迷子の子犬のように何度も親父の腰に絡みついていたっけ。
 僕は部屋に入ると真っ先に聞いた。
「男と女って違う風呂に入るの」って。
 いつも笑うことのない親父がその時は、タバコで黄色くなった歯を見せてニヤっと笑って言った。
「そうだ」
「なんで」
 ぼくは間髪いれずに聞いた。
「男と女は体が違うからな」
 親父はポケットからわかばを出してマッチを擦った。
「違うって?なにが」
「女にはちんちんがついてないだろ」
「えーっ?」
 僕はきっと僕の声を聞いていた人がいたら、腰をぬかすほど素っ頓狂な声を上げていた。
「うそだろ」
 僕は思わず自分の股間を握った。冗談じゃない、これがついてない人間なんて世の中にいるはずがない。
「知らなかったのか」
 親父は煙を口から面倒臭そうに吐き出しながら言った。
「知るわけない」
 僕は小さな声でつぶやいた。考えてみれば、うちには母親がいなかったから女性の体を見たことはなかった。誰からもそんなことは教わらなかった。理科や算数や国語は教えるくせに、なんでこんな大事なことを教えてくれなかったのか。僕は担任の林先生や隣に座っている真知子ちゃんの顔を思い浮かべた。あの中年のおばさんや真知子ちゃんたちにも、ちんちんがついてないのか。
 僕は知らなかったことよりも、ちんちんがついてない人間がこの世に存在している気持ち悪さに吐き気を催してきた。そして吐き気が収まると今度はちんちんがついてない股間は一体全体どうなっているのか、のっぺらぼうの股間を思い浮かべながら、親父の顔を見ていた。親父は何事もなかったようにわかばを灰皿でもみ消すと、僕に向かって何か話そうとした。
「もういいよ、聞きたくない」
 僕は耳を塞いだ。それはそうだろ、ちんちんがない人間の話しに加えて、これ以上気持ち悪い話しを受け入れられそうになかったからだ。
「じゃお前は男と女をどうやって区別してたんだ?」と親父は真顔で聞いた。
「それは」僕はしばらくしてから
「洋服と、それから顔」と答えた。親父は腹を抱えて笑いだした。そしてしばらく笑うと、そうかそうかと僕の頭を撫でた。
 それからというもの、僕は女を見るたび股間に目がいくようになってしまった。いや、性的な興味じゃないくてさ。それまでは女性は赤ん坊におっぱいを飲ませるために乳は大きいけど、ちんちんは普通についてると思っていたんだ。世間からみたら小学校一年生にもなってそんなことも知らないのかと思われるけど、僕はあのころはわりとピュアだったんだよ。

 そんなことがあったけど、拓也とはそのあとは仲良くなった。拓也は僕と逆で母子家庭だった。五歳の時にお父さんが事故で死んだって言ってた。そこから借りていた家を追い出されて、僕の家の隣にある今のボロアパートにたどり着いたらしい。
 拓也とはよく一緒に遊んだよ、良くないことをしてね。コンビニやスーパーのお菓子の棚の前に僕が座って、後ろに拓也が立つんだ。そうすると僕が店員から見えなくなるだろう。その間に僕はチョコレートやパンをシャツの下に入れ込むのさ。ある時シャツに詰め込みすぎちゃってさ、僕のお腹がメタボ親父のように膨らんでしまったっけ。店員から怪しげな目で見られた時、二人して店を飛び出したよ。そんなわけで一度行った店には二度と行かなかったな、それが最低の「礼儀」だし、何よりも捕まって説教されるのだけはごめんだったからね。
 盗んだことに罪の意識はなかったかって?そんなものあるわけないよ。その時の僕は家に無いものを、有るところから頂戴するって感覚だったからね。余っているところから持ってきて何が悪いんだって気持ちだったんだ。




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