オリジナル小説 暗闇で抱きしめて-『Hold me in The Dark 』人生一睡夢 8

三年生の時の話しなんだけど。恵子ちゃんて面長で目のぱっちりした同級生の女の子がいたんだ。僕のいた小学校では運動会になると、学年で一番早い子を決めるって徒競走があった。一年、二年と礼子ちゃんって子がチャンピオンになってた。この子はまん丸い顔に、まん丸い目をした可愛らしい子だった。恵子ちゃんが綺麗なら、この子は愛らしい感じの子だったな。勉強もできたし、とにかく人気があった子だった。
 ところが、恵子ちゃんが礼子ちゃんを抜いてチャンピオンになった。しかも恵子ちゃんがインコースから抜いたもんだから、コースを外れて抜いたんだ、ズルいって、噂がたって。最後には噂が噂でなくなって、恵子ちゃんはズルしたんだってことになり、クラス中大騒ぎさ。
 でも、僕はその日、レースのゴールテープ係で、最後のコーナーからゴールまでちゃんと見てたんだよ。恵子ちゃんがインコースから抜けたのは、礼子ちゃんがカーブを曲がりきれずに、外側に膨らんだからで、恵子ちゃんはちゃんとコース内を走っていたのをこの目で見ていたんだよね。 

 でもクラスでは休み時間になると、男の子が「おまえ、ズルしたろう」ってイチャモンをつけるんだよね。恵子ちゃんは知らない顔をしていたのだけど、あまりに言われるものだから
「ちゃんと走ったもん。ズルしてない」って反論したんだよね。そうすると
「嘘つき。俺は見てたんだよ、おまえがコースを外れて走ってたのを」って、たしか、幹雄(みきお)って子が激しく罵るんだ。この幹雄ってやつ、図体はでかいし声もでかい。体がでかいからまあクラスでは大きな顔してたな。
 面罵された恵子ちゃんはその場にしゃがみ込むと泣き出してしまった。そして泣いてる恵子ちゃんに向かって、また何人が、嘘つきって怒鳴る。僕は正直、徒競走の結果なんかに興味はなかったのだけど、実際に見ていたから、本当に何気なく言ったんだよね。
「ちゃんとコースを走ってたよ」ってね。そう言ったらどうなるかなんて、その時は考えてなかったね。ただ本当にそうだから、そうだと言っただけなんだけど。普通に考えたら、その時は多勢に無勢どころか、恵子ちゃん対人気のある礼子ちゃんを支持するクラス全体だったんで、大人ならわざわざ一人に味方して自分に火の粉がふりかかる真似なんてすることはなかったんだろうけど。「義を見てせざるは勇なきなり」とかいう正義感とか、そんなんじゃなかったんだよね。見たものは見た、ただそれだけなんだ。

 普通ならこの場合、衆寡敵せずになるんだけど、この場合は違っちゃったんだよ。幹雄が僕に向かって
「お前は嘘つきだ」って言ったんだよね。その言葉が終わる前に僕の右手は動いてた。右手で拳を作ると、背の高い幹雄の顔めがけて素早く伸ばした。
 言ってなかったけど、うちの親父が若い時にボクシングをかじったことがあるボクシングバカで。かじってると言っても、プロのライセンスを取る前にジムをやめてしまったくらいのレベルさ。狭い家の中で、親父はやたらにシャドーボクシングをやってたんだ。だから、左ジャブと右ストレートの打ち方を僕も見よう見まねで覚えていた。もちろん、使ったことなんてなかったけど。
 ボクサーに筋肉隆々な人がいないのは、腕に筋肉がついたら逆にパンチを打つ邪魔になるからなんだ。逆に僕のような普痩せっぽちでも、腰の回転とパンチを出すタイミング、スピード、当てる箇所で軽く打っただけで、強烈な威力がでる。もちろん、その時はそんなこと知らなかった。
 物理学的にいうと、運動エネルギーは、1/2×質量×速さの二乗で表されて、質量が大きいほど速さが早いほど大きくなる。でも、衝撃の発生時間が短くなれば最大衝撃値は高くなる。つまりパンチが当たっている時間を短くすれば衝撃は大きくなる。だからパンチが当たったら、すぐに腕を引く。ボクサーがやるのはこのためなんだ。そんな理屈は知らなかったけど、親父のシャドーを見ていて、やり方だけは知ってたんだよね。
 僕はパンチが当たって素早く腕を引くと、幹雄をもんどりうって倒れた。どうやら僕のパンチは幹雄の顎、チンにもろにあたったようだった。殴った僕には当たった感触もないくらいだったんだけど、殴られた幹雄はそうじゃなかった。仰向けにひっくりかえるとそのまま床にのびてしまったんだ。
「せんせー」って呼ぶ声と、「みきお、だいじょうぶか」って言う声、「動かしちゃだめ」なんて叫ぶ女の子もいたっけ。けど、誰一人として僕に向かってくるやつはいなかったな。きっと僕が出したままの右手を、そのままいつでも打てるように構えていたからだろうな。誰だって殴られるのはごめんだろうから。

 でもそれからが大騒ぎだったよ。なにせ幹雄の親は市議会議員の親戚だかがいて、学校に怒鳴り込んできた。先生たちはひたすら僕に謝れって。ただこれだけ。僕は誰に言われても一言も口を開かなかったね。
「なぜ謝らないの」
 担任の先生は、ケバケバしい化粧を塗りたくった白い顔と赤い口紅を僕の顔の前に近づけて、口角に泡を飛ばしながら言った。
 そう、思うんだけど、あの化粧というのは何なのかね。女性が、「今すっぴんだから」とか、「化粧しないと出かけられない」とか言うあの言葉だよ。当たり前だけど、化粧は素顔じゃない、素顔ではないと人前に出られない風習っていったいなんなんだろうね。化粧なんてものはいわばお面と同じようなもの。お面を被らないと人前に出られないなんておかしいだろう。なぜ、就活の面接で、君そのお面、化粧を取りなさい、なんて言ったら、セクハラだ、パワハラだ大騒ぎになるんだろうな。でもおかしくないかい、化粧に飾られて見られない素顔を見て採用を決めるなんて。顔で採用を決めたら公平じゃないって?馬鹿言ったら困るよ、世の中の会社が、どっちを採用してるかかなんて言うまでもないだろう。
 それで結局、僕は謝らなかった。口をきかなかったっていうのが正しいかな。言いたいことはやまほどあったんだけど、どうしても出てこなかったんだよね。そんなことってあるだろう。ただ親父は後日訪ねてきた担任に、散々に言われたらしいよ。




コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です