オリジナル小説 暗闇で抱きしめて-『Hold me in The Dark 』人生一睡夢 9

その恵子ちゃんは運動会が終わって少し経ってから、学校に来なくなった。当時恵子ちゃんは教室では僕の隣に座っていたんだ。寡黙な子だったな。無駄口はきかないし、先生から指されるまでは、自分から手をあげたりしなかった。一度、恵子ちゃんが落とした鉛筆を拾ってあげたらニコッと笑ってたっけ。
 先生はただ入院したって言ってた。腎臓が悪くておしっこの出が悪いとか言っていた。僕は恵子ちゃんが学校に来ない理由が、運動会のことじゃないってわかってほっとしてた。けど、恵子ちゃんは秋になっても、冬が過ぎても学校に来ることはなかった。僕はポツンと空いた恵子ちゃんの席を見ていたんだけど、もういなくなっていることが当たり前のような感じになってきた。隣に座っていた僕ですらそうなんだから、クラスのみんなは推して知るべしで、恵子ちゃんのことなんて一顧だにしなかった。そして恵子ちゃんは永久に帰ってこなかった。
 葬式にクラス全員で参加したんだけど、僕には感傷どころか何の悲しみの思いさえ浮かばなかったんだ。遺影を前にしてもそうだったし、女の子たちでさえ無表情だった。きっと大人たちなら、涙の一つも流せるんだろうけど、子供は本当に正直なもんだよ。去る者は日々に疎しってやつなんだろうな。いなくなっちゃったんだという感情しか湧いてこなかった。恵子ちゃんのお母さんが泣きながらクラスのみんな一人一人に手を取りながら、これまでありがとうって言うんだけれど、恵子ちゃんが亡くなって悲しいんだな、としか思わなかった。僕は冷たい人間なんだろうか。
 翌日学校に行くと僕の隣の席に花が飾ってあった。なんていう花だか知らないけれど、真っ白い花だった気がする。僕は恵子ちゃんが花になってしまったようで、その時初めて悲しみの感情が湧いてきた。もうこの席に恵子ちゃんが二度と座ることはないんだという実感が湧いてきたのかもしれない。葬式で恵子ちゃんの遺影を見てもそういう感情はわかなかったのは、学校に行けば恵子ちゃんはもしかしたら来るかもしれないって思っていたのかもしれない。僕は、自分もいつかは花になるんだろうな、と思って白い花を眺めていた。このころから漠然と死というものを考えるようになった。

 人が死を恐れるのは自己が終焉してしまうからなのだろう。生物学的な死よりも生命の終焉によって自己が消えてしまうからなんだ。ある時点で植物人間になってから、その数年後死ぬとした時に、人が恐れるのは植物人間になる時だろう。逆に言えば自己なんてやっかいなものを持たなければ、死の恐怖は、ありはしない。だから自己がない動物には死の恐怖は無いんじゃないかな。
 ただ、自己は他人に支えられている一種のかたち(・・・)にすぎなくて、人がそれを認めてくれなければ、夢まぼろしのごとくに儚い。例えば、免許を持っているから医者なんじゃなくて、医者だと他人が認めているから医者でいられるんだよ。それに気づかない人は本当に多いよな。
 これは高校の時の話しだけど。高校を卒業してから何ヶ月か経ったある日僕の友達の井上ってやつが、街で谷田って担任の先生にばったり会った。谷田は井上に向かって
「おい、井上、元気でやっているか」って声をかけた。すると井上は
「気安く声かけてくるんじゃねえよ」って答えた。
 谷田はいつまでも先生のつもりでいたんだけど、もう関わりのない井上にとってみればもう先生でなければ生徒でもない。それを谷田がわからなかった。
 話しが飛んだけど、要は現実の基盤を持たない「自己」は自尊の幻想に支えられているに過ぎない。それに支えられているからこそ、それを崩されてしまうと自己そのものが虚無に転落してしまう。侮辱されることに我慢できないのは、侮辱が自己を危険にさらすからなんだろう。だから、人間は死の恐怖に駆り立てられて、侮辱に対して際限なく反撃、攻撃したりするんだろう。自己が幻想だからこそ、物欲、攻撃欲しかり、際限のない欲望にとらわれるんだろう。人間はずっと自己が無くなる恐怖に耐えることしかないんだろうと思う。
 少し真面目な話しをしすぎたけど、要は恵子ちゃんの死は、死というのは近くにあるってことを教えてくれた。けど、僕はそれが来るのは遠い日のことだと思ってたんだ、ただ漠然とね。
 
 というわけで、僕は小学校三年生の時に、死という存在と異性という存在を知ったんだ。それからというもの、このやっかいな二つのものは、四六時中僕にひっついてきて何につけても僕を悩ませる存在になった。でも、この二つに共通して存在するものは、自我であって、自我さえなければ悩むこともないってことはこの時はまだわからなかったんだよな。
 考えてみればこの自我ってものほどやっかいなものはなくて、人間の感覚、感情、欲望も義務、責任もそれを自我のものと感じて認めていく限りにおいてしか表現できないし、行動できない。人間にとって自我は世界の中心だし、肝心要のど真ん中なんだよ。だから自我が崩壊してしまえば世界も崩壊するんだろう。
 でも残念ながらその自我は他人によって支えられている、他人にそう認められていて初めて存在するもの。わたしをわたしと認めてくれる他者が一人もいなくなれば、わたしはわたしでなくなる。そんな共同的な幻想にかろうじて支えられている儚(はかな)くて切ないものなのかもしれないね。




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